親愛なるみきちゃん。嘘をつかないで答えて下さい。本当にお元気でいらっしゃいますか? 連日のコロナや世界の悲しい報道に、迫り来る恐怖を感じずにはいられません。考えたくないけれど、あなたも私も、もはや無事ではいられないかも知れませんね。これは若い時の印象ですが、あなたは見かけほどお体が強くないように感じていました。だから尚更心配しています。どうか約束して下さい。現在のあなたにも、ずっと大事にしてあげたいと思う人がおられるなら、その方のお小言を素直に聞いて、今こそご自身とあなたを頼りに生きる人たちをしっかりお守りなさいね。私もそうやって家族と力を合わせ、この困難を乗り越えてみせますから。そしていつの日か、お互い元気な姿で再会しましょうね。
 さて不発の第一弾はともかく、この場をお借りしての終活は既に完了しています。大事な手紙は親展にして未来のあなたへ発送しました。いつか思い出して下さったら、どうぞ受け取りにいらしてね。ここでは生きている間に何度かメンテナンスが必要ですが、ずっと抱えていた大切なことをやり遂げた後なので、激しい世相とは裏腹に私自身は穏やかな心持ちで過ごしております。これはただ、そこに手頃な紙切れがあるのだし、心に忍ばせたペンで語りかけるように綴っては、あなたを懐かしんでいるだけです。取り立てて急ぎのご用もなく静かな午後には丁度よい、お気楽な暇つぶし、といったところでしょうか。
 今はまだ遥か遠い先のことですが、身旺なあなたにもいずれ輝く星となり、虚空の宙に抱かれる日が来ます。それまでに私の願いは叶わず儚い夢と潰えても、それもまたこの世の決まりだったのです。少しも恨まず受け入れましょう。大切なのは全てを超え、真心を伝えようとすること。愛しいあなたが空へ帰る時、この世を生きた幸せをたくさん感じてゆけたらよいのです。そのうちのひと品として私の心も捧げたい。ただそれだけです。あなたは素晴らしい友人でした。お断りしておきますが、男性としては存じ上げませんよ。二人はお付き合いをしたこともなければ、手を取り合って大事な時を生きて来たわけではありませんから。それはお隣にいらっしゃる方に尋ねてご覧なさい。私の予想では、おそらく及第点ぐらいは頂けるのではないかしらと思いますけどね。ただし夢を追うあなたのことですから、やっぱり保証はしかねます。ほらね! 確かに今笑ったはずよ。
 だから未来のある日、あなたがここで受け取る手紙の束は、ずっと昔、少年だったあなたに片想いをした友人からのささやかなおくりものです。今更どなたを傷つけるものでもありません。それにこれらの存在をあなたが知っても知らなくても何ら罪はなく、結局大した違いはないのです。なぜなら私があなたを忘れるなんてことは絶対に、絶対にあり得ませんもの。

 前置きがいささか長くなりましたね。

 あなたは若い時、友と語り合うことを大いに好む人物だった。寛い心と細やかな感性、どちらも持ち合わせた素晴らしい友人がいたことを、いつも誇りに思って生きて来た。             

 私の声を覚えていますか? またあなたを見上げていますよ。ゆっくりと、振り向いたやさしいあなたは手を止めて、少しかがむように耳を傾けてくれたら、昔話の始まりです。

               よう
 
 数日前のことですが、お昼過ぎに郵便屋さんがやって来て、一冊の絵本が届きました。岩崎ちひろさんの絵で有名な『ゆきごんのおくりもの』です。(まさかとは思うけれど、あなたがこの本を未読でこれから読みたいと思っていらっしゃるなら、この先はご覧にならないで。殆ど読書感想文ですから・・)大人しく読書などせず、外で遊ぶことが大好きだった私がこの名作を初めて知ったのは、小学校に上がってしばらくしてからのことでした。個性的なキャラクターで子どもたちの目を惹くような派手さはなく、ほぼワンカラーの落ち着いた雰囲気の装丁。いい歳の大人には薄くてちょっと大きすぎるわね。なぜか辺りを見回して、少し気恥ずかしいような気分で手に取ると、急に人生が逆戻りするような感覚に・・。こうなったら申し訳ないけれど、しばらく私は母でも大人でもありません。心の中に住むという、あなたもただの背の高い見知らぬお兄さんです。だって今これを見つめているのはもっとずっと昔の、小さな子どもだった頃の自分なのだから。
 湧き上がる喜びにかん高い声をあげ、真っ白な雪道を時と競うように駆け抜ける。そうやってあっという間に成長してしまう幼子が目の前を通り過ぎる瞬間見せてくれる、実に直向きな姿が胸に迫って愛おしく、それゆえに切ない雰囲気まで自然と漂う見事な絵。古い記憶通りの、温もりをやさしく伝える懐かしい文字。たとえ早く先が知りたくても、パラパラとページをめくるのはなんだか勿体ない気がして、久々に味わう贅沢な苛立ちです。あら、本が届くまですっかり忘れていましたが、主人公の男の子の名前は「みきちゃん」だったのね。これはまったく思いがけない偶然で、たいそう驚きました。どうやらこの物語との二度目の出会いには、出発の前夜、泣き疲れて眠りに就いたままの古い悲しみまで、再び呼び起こされてしまいそうな、そんな予感がしてきます。
 それにしてもなぜ今頃、わざわざ中古の出品を取り寄せてまで、この絵本を開いてみたくなったのでしょう。実は私にはうんと小さな子どもの頃から、どうしても確かめずにはいられないある疑問があったのです。それはゆきごんが物語の最後に残した「消えない雪」についてです。ラストシーンでようやく元気になった小さいみきちゃんは、この雪の上ででんぐり返しをしたりして時を忘れて遊びます。「なぜ、この雪はいつまでも消えなかったのかしら。どうして解けてしまわなかったの?」当時の私は無邪気にも、オールシーズン雪遊びのできる主人公が羨ましかっただけなのですが、それでもいつかこの謎を解いてみたいと思っていたのでありました。
 病気になった仲良しのみきちゃんを、窓の外から心配そうに見つめるゆきごん。ゆきごんはみきちゃんが雪で作った怪獣だから、お日さまに当たると溶けてしまうのです。みきちゃんともう一度遊びたくてあくる日も彼を待ちますが、雪の体はどんどん溶けてゆき、とうとう遠くの寒い国を目指して出発しなければなりません。ゆきごんが去った後、窓の下にはみきちゃんのために流した汗と涙が、一枚の雪のじゅうたんとなって敷かれていたのでした。
 だからつまりこの雪はね、ゆきごんの体の一部でゆきごんの心を象徴しているの。ゆきごんは小さいみきちゃんの一番の味方だったし、友だちを大切に思う気持ちと愛は永遠で、しかも楽しかった思い出はずっと消えたりしないからよね。小学生の書いた答えなら、それだけで大きな花マルが貰えて模範解答だと貼り出されそうだけど、たくさん生きた後はそれを自ら証明しなければならない。ねえ、大人のみきちゃん。あなたもやっぱりそう思うでしょう?
 
 恋多きあなたにはいつだって心に想う人がいたけれど、私はあなたのことが大好きでした。普通、自分を振った相手なんか顔も見たくないはずよ。恥ずかしいし決まりが悪いし、何よりこの人の隣は私のものではないんだなって思うと見ているだけで悲しくなるもの。なのに心の寛いあなたは、それでも慕う私を避けることなく大事にしてくれたの。そうすることはあなたみたいな紳士的な人にはごく当たり前で、特別なことではなかったのかもしれない。だけど傷ついた私はくだらない自尊心なんかより、遥かに尊いあなたの思い遣りをとてもありがたく思っていました。もちろん、今に至るまでずっと。こんなのは大人になってからの恋にはあまりないかも知れないわね。やさしいあなたはこんな私に心地よい居場所を与えてくれたから、誓って多くは望まなかった。何もいらない。自分だけ健気なようだけど少しも嘘ではないし、近くにいられることがただ嬉しかった。大好きなあなたが愛してあげるのはいつも、誰もが認める素晴らしい魅力を放つ女の子たちだった。だけどそんな素敵な誰よりも、私はうんと幸せだった。こんな告白は誤解を招くか、あなたの想いを軽んじているようでなんだか申し訳ないわね。でもこれはね、今でも自信を持って言えることなのよ。それにどれももう、あなたにとって昔の恋だから許してくれるでしょう。そして私の知る限りと推測だけど、過去の出来事に執着していないことこそ、現在のあなたがとても幸せだという証拠なのだから。そうそう、おかしな話だけれど、あなたは自分の好きな人より私を優先してくれたの。信じられないでしょう? いい加減なことを言うなよって怒らないでね。覚えていないあなたが悪いのよ。あの頃のあなたはね、まだ若かったから、望んでもいないのに無条件に慕われるということにきっと不慣れだったの。哀れな私をどう扱ったらいいのかわからなかったのよ。この世にはお母様が下さる他にも無償の愛が存在するなんて知らなかったし、またそんなものを欲しがる必要もなかったの。持って生まれた能力もプライドも高いあなたはいつだって相当の努力をしていたし、またそうすれば素敵なものが手に入ったから。その後私と同じ立場になって自ら経験するまではね。一方、あなたの心を得られなかった私は、しばらくあなたのやさしさに甘えてはいても、いずれ現実を受け入れて、傷が癒えたら自然とあなたから離れて行ったでしょう。不釣り合いなのは自分でもわかっていたし、いつまでもあなたを困らせていてはいけないということもね。本来なら辛いだけの経験なのに、よりによって自分を振った大好きな人がその悲しみから守ってくれた。思ってもみないやさしさに包まれた世界一幸せな子は、どんな形でもいいからいつかあなたの役に立ちたいと思った。あなたが喜んでくれるようなお返しをしたいとずっと思っていたのよ。失恋相手の役に立ちたいだなんて、おかしなことを考えるにはそれなりの経緯があったから。私にはもっと時間が必要だったのよ。なのにそんな準備も覚悟もできないまま、無情にも突然暮らす場所が遠く離れなければならなかった。せめてあの時もう少し、私が大人で賢かったなら。泣いてばかりいないであなたを思い遣り、もうすぐいなくなる大事な人のために、何かできることがあったのかしら。
 あれから随分と時が流れ、私にはあなたが何処にいるのかすらわからない。だけどすっかり大人になってたくさん生きて来たから、知恵も力も少しは身に付いた。それにこんな時代だもの。探そうと思えばいくらでも手はあるし、案外簡単なことよ。たぶんすぐにわかっちゃう。でもね、あの時あなたはちゃんと向き合ってくれたから、私も精一杯大好きを伝えたから、あなたは少しも傲慢ではなかったし、私も決して無様ではなかった。二人にはお互い謝ることもなければ、言い残したこともない。つまりあなたが気まぐれにでも私に会いたいと思ってくれる奇跡を願う他に、あなたを探して会いにゆく理由がなんにもないの。それにね、困ったことに私、一度でいいからあなたに会いたいとは思わないのよ。いくら歳を重ねてもそんなに強くなれなかった。あなたに対してだけは幾つになっても甘え癖が抜けないの。これは辛い時、冷たく放っておかないでやさしくしてくれたあなたのせいよ。その私がこんなに我慢して来たのに、うっかり会ってしまったら次はどうしたらいい? 明日も会えなきゃ死んじゃうよ。もうすぐ四十年にもなるけれど、あなたがいなくなる前の日と同じだね。あの悲しい夜に戻ってまたあなたを困らせるだけ。だからね、大好きなあなたのことはこのままにしておく。何も加えず永久保存よ。これが遠く逸れ何年もの時を経た今、やっとあなたのために私ができる、たったひとつのお返しだと思うから。
 ところで、あなたの想い出なら溢れるほど持っているけれど、私があなたに残したおくりものはあったのかしらって、今になって思うのよ。ゆきごんみたいにあなたを想ってこんなに涙を流したのだから、たとえ無意識の、そのまた水面下にでも、あなたにだって何か残っているはずよね。私が思うに、、心から愛された自信か自負かな? 私だって一応は女の子だったんだから、大したことはなくても異性から好きだと言われたら嬉しいでしょうよ。それともやっぱり、、ありがた迷惑でしかなかったかしら? まさか人生最大の汚点じゃないでしょうね! 何だろう? 消えない雪の正体は。あなたがすっかり忘れていてもこれだけは知りたいわ。だってそれは私の一部で、この物語の大事な要素ですものね。そんなことを考えていたら、やっぱりいつかあなたに会いたいと思う。とにかくあなたにもう一度会うことは、あの頃の直向きな自分に再会することでもあるの。だからその時は正直に、でもちょっとこわいから、お願い、やさしく笑ってそれが何だったか教えてちょうだいね。たっぷり時間をあげるから、それまでに必ず思い出しておいてほしいの。

 いつだって完全に終わりにしないで、想い出のあなたと遠い約束をしておけば、今日も心が救われる気がする。長い長い間私はこうやって、お別れを引き延ばして生きて来たのかも知れない。あなたへの想いは日陰にひっそりと解け残る、ひとかたまりの白い雪。大事にするのよ。日に当たらなければ消えることはない。

 絵本を閉じて、現実の自分に戻るね。つかの間の魔法が解けるよう。みきちゃん、私はこれでも逞しく生きているのよ。小さな男の子が寒さに頬を紅くしながら、冷たい雪でこしらえた怪獣のごとくね。怒って火を噴くことだってあるんだから。今はどうだか知らないけれど、しっかりしているようで実はかなり甘えたの、やさしいお坊ちゃまだったあなたなんかに負けないぐらい。もしもあなたが少年の心を持ち続けていたら、なんと不名誉な言われ方だと怒るでしょうね。そして小さいみきちゃんはやがて理解するはずよ。異なる生物が大きくなって暮らすには、それぞれに適した相応しい場所があるの。聞き分けなければいずれ死ぬ。生きるためには、生かすためには、突き放さなければならない。あなたもそう思ったのでしょう。二人を隔てたものは距離ではない。だから遠く離れなければならなかった。
 それからもうひとつ、私には証明できることがある。あのね、絵本は終わりを迎えても、物語には続きがあるの。ゆきごんもね、消えることのないみきちゃんとの想い出をいっぱい抱えて来たから、遠く離れた寒い国へ行った後も、そこで出会った仲間たちと幸せに生きられたのよ。想い出は心に深く刻むもの。数でも量でも、まして長さでもない。私の想い出の主人公もみきちゃん、あなただった。私がこの場所で自分らしく生きて来られたのはあなたのおかげね。私を作り出し、語り合い、自ら冷たい思いをして生かしてくれた温かい人。全てにおいて誠実な人。私の人生になくてはならない人だった。
 
 みきちゃん、ゆきごんは今も元気で生きているよ。どこも欠けてない。この瞬間と、明日とあさってもあなたに会いたい。でも寂しくないよ。持たせてくれた想い出は永遠に消えたりしない。ゆきごんに素敵なおくりものをありがとうね。
  

   遠い国から愛をこめてQ.E.D.

      みきちゃんのゆきごんより

       


                  
   

   


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